渡良瀬川の橋・古河橋
橋 長50m
幅 員:4.6m
完 成:○○年
位 置:下流から○○Km
路 線:○○
見た目:きれい
 慶長十五年(一六一〇年)に発見された足尾銅山は、明治十年(一八七七年)に古河市兵衛が経営に乗り出している。そして、銅の生産額の増加の代償として、洪水ごとに、川には魚が浮き、その当時から「死せる渡良瀬川」と呼ばれていた。明治二十三年(一八九〇年)八月二十三日、渡良瀬川は大洪水に見舞われ、館林以東八十九ケ村は、泥海と化した。同じ年、第一回衆議院議員選挙に当選した田中正造は、この洪水の泥土を化学的に分析し、生物に有害であると確証をえた。そして、翌年の国会で質問をしている。以来、田中正造の長い長い公害との闘いがはじまる。
 「渡良瀬川に魚族絶つ」の記事が載った明治二十三年。鉄橋としては、日本最初で最古といわれる橋が完成したのである。足尾町の本山(ほんざん)と松木川対岸の赤倉を結ぶ橋として。その名は「古河橋」。ボーストリング・ワーレントラスト方式と呼ばれ、長さ五十メートル、幅四・六メートル。約三十トンの重量に耐えられる設計となっている。併行して、その隣に新古河橋が架けられたのが平成五年。この古河橋は歩道橋として現在も活躍している。
 明治二十六年には、ここ足尾銅山は全国一位の銅山に成長し、第一次世界大戦の影響で好景気をもたらし、大正十五年には、足尾町は人口三万八千余を数える街となった。
 この橋の上流には、松木村があった。が、明治三十四年に廃村となっている。松木人民は、銅山から立ち上る煙害によって生活ができなくなり、全村住居を捨てて退去せざるをえなくなった。松木村は、谷中村闘争以前に、歴史から葬り去られた廃村第一号の村である。
f古河橋関係
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